蟻穴

カチャン、と扉の鍵を締める音が響く。擦れたピアノ線が弾けるみたいに、緊張が一気に弛緩する。ばちん、と頭の中でその音を鳴らしながら振り向くと、店に入ってきた時の、ネオンが燦然と煌めいていた真っ暗闇は、一面に白い陽光を浴びてきらきらと不自然に輝いていた。
「お疲れ様でーす」
腑抜けた声を出す。それを合図にあなたは、同僚たちと他人になった。午前六時、夜勤明け。駅に向かってとぼとぼ進む。最近通るようになったこの交差点の信号が変わる間隔をだんだん掴めてきて、青に変わる一息手前であなたは歩き出すことができた。いつも寄り道する駅前の喫煙所までは五分程度で着く。この時間はまだ人も疎らで、切れてしまったピアノ線を張り直すにはちょうど良い。ライターの灯を揺らす風を必死に手で遮る。ようやっと燃えた煙草を吸っていると、ひやりとした感覚が肌を刺した。陽光を湛えていた空が知らない間に薄曇っている。数滴の雨粒が頰に肩にと落ちてくる。嫌な予感がして、屋根の下までそそくさと早歩きした。ぎりぎり間に合ったな、と内心喜ばないでもなかったが、一方あなたのせいで仕事が増えた上司が濡れて帰ることに、あなたは気づいていない。人差し指と中指で挟んでいた時間があなたのもとを離れる。とんでもない質量の自由を持て余して、仕方なく近くの花壇に座る。新しく買ったイヤホンが耳のサイズに合わなくてあなたは苛立った。あなたは外の世界の音が聞こえるのは好きではなかった。どうして私の邪魔をするのか、と。数曲をざっと弄んで、徐にふうっ、と腰をあげた。あなたは家に帰ることにした。強くなってきた雨に燻されて湿った香りが鼻腔を擽る。あなたはこの強烈な香りが好きだったが、あなたの知人にそれが共感されることはあまりなかった。途中でコンビニに寄っておにぎりを買う。電車の中でものを食べたくなかったので、それをコンビニの脇でさっと口に入れる。あなたは、人に興味がなかったが、ひと気を遣っている自覚があった。あなたはいつも乗り換えるのを嫌って、最寄りに停車する区間快速に乗る。耳から半分外れているイヤホンがそのままだったので、あなたは白く湿った、梅雨の空でも見るような視線を向けられた。それに気付いたあなたは慌ててイヤホンを外し、申し訳なさを笑顔で誤魔化しながら暫く寝ることにした。